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 【03//2016】

さて、思考停止し子供から哲学まで置き去りの動物化時代。
ハード・コアなニートの思考の旅に、再びお付き合いを。

前回はドイツ観念論の最高峰、ヘーゲル弁証法までサラッとなぞりましたが
ヘーゲルら観念論らから右派と左派が派生。
マルクスなどのラジカルな唯物論者が、後世へラジカルな影響を与え
後の共産主義革命を萌芽させたりしましたが、その限界も露呈したのは前述の通り。

そう、哲学的考察という観点から見れば、
後日に別個掘り下げるマルクスらの主張も所詮は唯物論。

ヘーゲルらのドイツ観念論へ哲学的カウンターを与えたのは、
キェルケゴールらのような実存主義哲学や、新興国である米国のプラグマティズムでした。
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キェルケゴールは、これまでの理性的に本質的な存在へアプローチする哲学的な態度を批判。
「一生はワンタイム、各個それぞれの問題であり、スペアの効くような代物じゃあない」
「まさにこの実在、主体性こそが、真理じゃ」
と、実存主義哲学を展開しますが、その主体的な存在にこそ真理を求めるそれは、
当然ながらワンタイム。

ヘーゲルのように壮大な体系化はできませんが、「実存の三段階説」で説明。
そのめんどくさいそれの詳細は省きますが、
ヘーゲル弁証法以降、概念を徹底的にこねくり回すムードに辟易してた時代。

「なんやかんや生きてくしかねーんだよ」というそれは
それなりの哲学的カウンターを与えたわけで、
後にドストエフスキーらのロシア文学などにも影響を与えます。

そんな概念的厭世ムードの中、ショーペンハウアーの厭世哲学もタイムリーに萌芽。
「もうこの世は苦痛しかねー。救いはねーよ」「救われたくば、自分を否定しろ」
と、インドの聖者がニルヴァーナで解脱するかのような、
まさにカート・コバーン的ともいうべき厭世的な解決策を提示。

そんなショーペンハウアーの厭世観から影響を受けた音楽家こそが、
かのリヒャルト・ワーグナー
そのワーグナーの初期作品はショーペンハウアー的なペシミズムの影響モロ出しでして
「ニーベルングの指環」の第一部は彼に捧げたもの。

そのワーグナーを熱狂的に愛する、ニーチェという哲学者がドイツに現れます。

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”永劫回帰”なる神秘体験を基軸に据えたその独自の哲学は、
キリスト教などを含む欧州の思想全ての死を宣言し、厭世的に破壊。

向井秀徳氏の言うところの、「繰り返される、諸行は無常」

獣と超人の線上に人間を説いたニーチェですが、
その死と共に西欧哲学や思想に一つの句読点が打たれました。

一応の句読点が打たれた近代哲学の系譜ですが、人類の思索は終わりません。
ドイツ生まれのユダヤ人、フッサールの「現象学」により、思索の旅は再始動。
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厭世的で実存主義的な哲学ムードを再び
概念をこねこねする哲学へ回帰させるそれは、まあ、めんどくさいわけで

「我らは何かを認識する時、対象である存在や世界や意識を
無自覚的に前提としとるが、認識とその対象の一致は何ら保障されとらん」
「近代哲学はこの重大な問題に気が付いてないから、実証主義的な哲学はいい加減じゃ」

と、意識によって世界構成を行う前に、構成の方法を厳密に記述することによって
諸カテゴリーの基礎を再構築しようとしたのが、「現象学」

ちゅーコレまためんどくさい哲学でして、
とはいえ、確かにドイツ観念論に対するカウンター的な感もあった実存主義哲学を
より本格的なものへする出発点となったのです。

そこで、実存主義をより本格的にしたのが、ハイデガーとサルトルでありまして
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ドイツのハイデガーは、存在というのを現象学的な考察の下、更に深くに掘り下げ
ソクラテス以前へ原点回帰しようとする態度も散見され、色々と賛否両論を生みました。
その詳細は好き者ならば、多く知るところでしょうし、ここでは割愛。

そのハイデガーの後継者ともいるのが、フランスのサルトル。
彼の実存主義を徹底化した思想や哲学は同時代に大流行。
小説家としても著作物を生むだけでなく、マルクス主義にも同調する才人でありましたし
この辺の哲学者になると、我ら現代社会へも大きな影響を与えてますな。

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片や急進的に成長した米国でも、これまた独自の哲学が萌芽。
プラグマティズムと呼ばれるそれは、歴史の浅い新興国らしい急進さがありながら実践的。

と、まあこんな感じで、人間の存在とは何か?
この連綿と連なる根源的な自問自答の
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近代的な系譜ですらも、まあ面倒くさいことこの上なし。

敢えて、じっくりとその思考の過程を軽く流しましたが
それを軽くでも、踏まえるのと踏まえないのとでは大違い。

今やこの21世紀は、政治、経済、宗教、科学、文化
この哲学的な”思考”が全くと言って良いほど壊滅し途絶え、
動物的な利己ばかりが、幅を効かせてる時代。

主観的な自律機能を回復する上で、大いなる自助となり得るのです。

法以前に道徳とは何か?罪とは何か?

倫”理”と書く

そのシンプルな経験則的な過程を、各自が敢えて面倒くさく論理的に捉えてこそ、
最大公約数的な妥協点ともいえる、法律や社会も見えてくるのです。
トーゼン、へんな宗教や自己啓発は無論
へんな強迫観念や、それに伴う苦役列車に、惰性で乗らなくて済むのは言うまでもなく。

その主観的な人間回復の旅、この哲学のアウトラインですら序章。
今後はまだまだじっくりと、カテゴリー別になぞりましょう。

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Category: ハードコア・ニート

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