政治とは表現活動だ!

え~日々誰も読みもしない
このめんどくさい戯言

ダルいのにバカみたく書き殴っているのは

ハードコアなニート生活も含めて
全部、徹頭徹尾個人的な政治活動

の一環だからでして、その有効性はひとまず置いといて

どーもこの国では政治活動
もっというと政治そのもの
更に言うと文学や芸術など表現活動もその趣旨を完全に履き違えてるフシがあるので
ここいら辺で今や政治活動後進国に成り下がった
日本人にも真の政治活動とは何か?

この際ハッキリ解るように徹底的に解説しましょう。

それには個人的に参考にしてる日本屈指の政治活動家
外山恒一氏の

政治活動入門

をば参照してもらうのが手っ取り早いのですが

氏の秀逸なる政治活動解説を引用し
更に補足的に解説していくことにしましょう。

とかく日本的な民主主義が骨の髄まで染み付いた
今の日本で政治活動というと
~以下引用~

政治活動とは何でしょうか。
 多くの人は、政治活動と聞いてまず選挙などを思い浮かべるでしょうが、もちろん政治活動と選挙運動とはイコールではありません。
 選挙に関係すること(有権者の一人として投票することや、特定の政党や候補者への支援活動をする こと、あるいは自ら立候補することなど)も政治活動の一種ではありますが、実は政治活動の中でもかなり特殊なジャンル(?)にすぎません。
 あるいは、政治活動とは、何かの主張や要求を掲げて署名を集めたり、集会を開いたり、街頭演説や、ビラまきや、デモなどをおこなうことだとイメージする人もいるでしょう。
 しかしこの答えも、選挙運動しか思い浮かべられない人よりはいくらかマシですが、まだまだ正解とは云えません。

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まあ、日本で一般的に言うところの政治活動はおおよそ
上記のようなコトが一般的でしょうね(笑)

ですが氏の言う通り

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ほとんどすべての人は、生きていく上で、何らかの不満や苛立ち、怒りや焦りや、周囲への違和感といった、いわば「生きがたさ」のようなものを抱えてしまうものです。
 Aさんが「生きがたい」理由は、突き詰めていけば結局2つしかありません。
 Aさん個人の資質や性格に問題があるか、社会や時代の状況に問題があるかのいずれかです。
 前者である場合には、これはもうAさん自身が個人的に努力して何とかするしかありません。
 しかし、後者である場合には、Aさん一人の努力ではどうにもなりません。
 もちろん、たいていの場合、Aさんが「生きがたい」のは、百パーセントAさん自身に問題があるとか、逆に百パーセント時代や社会に問題があるということはありません。両者の混合の比率は人それぞれでしょうが、たいていは両方の要素を含んでいるものです。
 たいていの人は、何らかの「生きがたさ」を抱えており、それを何とかしたいと日々試行錯誤をしているものです。しかし、繰り返しになりますが、その「生きがたさ」をもたらしている原因のうち、その人自身に問題がある部分については、個人的な努力で何とかなりますし、またそれ以外に何とかする方法はありませんが、そうでない部分、時代や社会の状況がおかしいために抱えてしまっている「生きがたさ」は、個人の努力では絶対に解決できないのです。
 しかしすべての個人は、この同じ時代や社会の中に生きているわけですから、ある個人が抱えている「生きがたさ」のうち、時代や社会の状況に原因がある部分については、他の個人と問題意識を共有し、協力して解決の努力をすることが可能です。
 この努力が、要するに「政治活動」なのです。
 複数の個人に「生きがたさ」をもたらしている時代的要因や社会的要因を取り除くということは、結局は時代状況や社会状況を改変するということです。
 「政治活動」とは、状況を自らの「生きがたさ」を多少なりとも減らす方向で改変するために有効であるか、有効であるかもしれないと思われることを、実行に移すことです。ビラまきでも集会でもデモでも、あるいは選挙運動への関与でも、有効だと思えばやればいいし、有効でないと思えば別の方法を考えればいいのであって、そうした努力の総体が、「政治活動」です。
 また、それに先立って、自らの抱える「問題」のうち、どこからどこまでが自分に原因があり、どこからどこまでが時代や社会に原因があるのかを、深くかつ冷静に分析してみることや、あるいは時代や社会に原因があるとして、漠然と「社会が悪い」というのではなく、具体的に「社会のここが悪い」と言葉で説明できるようにすること(問題意識を他人と共有するためには、どうしても言葉が必要です)なども、広い意味では「政治活動」のうちですし、また、そうした努力自体を、自分一人でではなく誰かと共同でおこなうことも可能です。


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そ、ようは「生きに難さ」を感じてる人は
それが個人的な要因に起因するコトなのか?
はたまた社会的なコトに起因してるコトなのか?

それを個人的にリサーチし、個人ではどうにもならないコトが原因なら、
その「生き難さ」を生み出す要因である社会を徹底的に改善するために行う
パーソナルかつパブリックな活動の総体が
まさに政治活動なのです。

純粋な動物的な縄張り争いが消滅した以後の人類の歴史を振り返ると
「生き難さ」の要因は自己責任なんかじゃなく
圧倒的に社会的な要因が多いのです。

あの特攻隊も北朝鮮の餓死者も自己責任でしょうか?
個人的な努力でどーにかこーにかなるシロモノだったでしょうか?

マッタク違います。

氏は政治活動を行うには勉強(もちろん大学での勉強ではない)が必要であることを説いていますが
その辺は基本中の基本なので端折って

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政治活動というのも、要するに「表現活動」の側面を強 く持っています。
 では、それは他の表現活動、つまりバンドをやったり芝居をやったり小説や詩を書いたりするのと、何が違うのでしょうか。
 何も違わない、とも云えます。
 政治活動においては、「世の中のここがおかしい」といったような内容を何らかの形で表現する局面が多いわけですが、その「何らかの形」というのはそれこそ(本人がそれが有効だと思えば)何でもいいわけで、街頭で演説したり、主張をビラに書きつけて配布するという直接的な方法を用いてもいいし、もっと広く一般に流通させるために例えば言葉にメロディをつけて歌にして、さらにはそれをレコーディングしてバラまくなり売るなりしてもいいわけです。ナマな主張にメロディをつけるだけでは聴けたものじゃないなと思えば、云い回しを工夫して、遠回しに云ったり、比喩的に云ったり、抽象的に云ったりしてもいいわけですが、そうなるとますますその活動はごく普通の音楽活動に見た目の上では近づきます。要するに、本人はあくまで政治活動としてやっているつもりでも、ハタから見ると単なるちょっと社会派なミュージシャンじゃないか、ということもあり得るわけです。
 あるいはビラの文面にしても、いくらでも比喩的な表現や抽象的な表現は可能ですから、ここでもやはり政治的文書と詩や小説の境界はどんどん曖昧になっていきます。ビラを「フリーペーパー」と称したり、機関紙類を「同人誌」と称したりすることも可能なのですから、たとえそれで収入を得ているのではなくても、多くのアマチュア詩人や小説家志願と、外見上は見分けがつかなくなります。展開によっては、本人はあくまで政治的文書のつもりであっても、熱心な「読者」を獲得して、それが収益に結び付くことも別に珍しいことではありません。そうなるとますます、ハタから見るとやはり単なる社会派な作家やフリーライターです。
 同様に、まるで演劇や映画の人であるかに思われるようなこともあり得ます。
 また、いわゆる前衛芸術には、何か物理的な「作品」を制作しない、いわば行動そのものが作品であるパフォーマンスのような表現形式もありますし、また具体的に、これは逆方向ですが、「それは政治活動ではないか」と云いたくなるようなパフォーマンス芸術の「作品」もたくさん存在します。
 こんなふうに考えていくと、結局それが政治活動なのか芸術活動なのかは、やっている本人の「つもり」の問題でしかないということになりそうです。
 しかしそれでも、政治活動と芸術活動とは全然違う、とも云えます。
 例えば仮にその「演説」が、見かけ上どれほど「歌」や「演劇」に似てこようとも、政治活動においてはそれはあくまでも「手段」にすぎません。政治活動には、社会なり時代なりの状況を具体的に改変するという、別の「目的」があります。
 これに対して、芸術活動においては、個々の音楽作品や演劇作品そのものが「目的」です。仮にかつてのジョン・レノンのように、音楽で世界を変えるのだ的なココロザシがあったとしても、それが音楽作品である場合には、とりあえずは個々の作品の出来不出来だけが問題です。その作品が世界を変えることに貢献してもしなくても、いいものはいい、ダメなものはダメです。
 ところが政治活動では、状況を改変するという本来の「目的」に貢献するかどうかが最大の問題です。その「演説」が音楽作品や演劇作品としていかに優れていようが、状況の改変に貢献できなければ政治活動としては失敗ですし、逆に音楽作品や演劇作品としてはクズのようなものでも、貢献できれば成功です。
 要するに政治活動も芸術活動も、同じ「表現活動」であるとも云えますが、その表現行為が「手段」としておこなわれるのか「目的」としておこなわれるのかが違うのです。芸術では表現行為そのものが「目的」ですが、これは云い方を変えれば、芸術は目的を持たない、ということでもあります。政治活動には目的があります。

 歴史をよく勉強すれば分かることですが、多くの場合、政治と芸術、そしてさらに学問の運動は、互いに密接に結びつきながら、総体として一つの大きな運動を形成するものです。これらがバラバラに切り離されているのは日本だけで、しかも日本においても、それはたかだかここ20~30年間ほどの非常に特殊な状況であるにすぎません(そんな特殊な状況になってしまった経緯は、歴史を勉強すれば分かります)。
 現在、日本において、政治運動にも芸術運動にも学問の運動にも、見るべきものがほとんどないのは、端的に云って、これらが互いに無関係なままバラバラに存在し、緊張をはらんだ影響関係がないからです。もっとはっきり云えば、政治運動が存在しないに等しい状況だからです。
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そうそう、これこれ
以前からパンクなどを政治活動の手段として意識している自分が言いたいコト
それが皆無な今の日本の状況も含めて
補足の必要のないくらい的確に表現されています。

小説から映画から漫画からアニメから音楽まで
日本の表現作品は一部を除いて心に響かなくて実に嘘くさいのは

全てこの表裏一体である政治や社会をマッタク意識してないからなのです。

ハッキリ言いいますが
自分が生きてる社会を正面から見据えることなく
現実社会を何も反しない表現活動なんか
無目的な商業主義や芸術としては優秀だろうと
生活のための手段として公務員を目的にする輩と同じく

真の意味での表現活動
ようは政治活動としては一切意味のないシロモノと思ってよいでしょう。

そこら中にいるでしょ?表現だけを目的にしてる似非芸術家が
タイムリーなので例に出しますが
当初は表現を目的にしてた芸術家でも
坂本龍一氏や宮﨑駿氏のように晩年は政治活動を志向するようになるのは
ある意味、表現者として誠実な証
至極当然の帰結ともいえるわけで
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ピカソのこのゲルニカも純粋なる政治活動でありますし

日本の不幸は
戦後というか商業主義が表現シーンにも台頭した80年代以降
所謂メジャーな表現シーンで
この政治活動が一切存在しなくなったからです。

欧米でもPUNKが地下に潜った80年代(そのせいでエッセンスが濃くなったが)
そういう状況になりましたがニルヴァーナがマイケル・ジャクソンを蹴落として
文字通り全く新しいオルタナティブなシーンが開花

今でも受け継がれてますが

日本は完全にこの流れから隔絶され
商業主義にどっぷりハマり
ロックですらメジャーシーンでは主張より様式を再優先する
ビーズ?やボーイ?のような変換するのもダルい
80年台の商業主義の流れを汲むシロモノばかり

政治的なエッセンスを表現に盛り込むのがダサい
とすら思われる状況(笑)

世界的にダサいのはそういう表現なのですが
そういう存在が無理して政治的なコトを表現したりすると
余計に嘘くさくて益々ダサいシロモノになるという悪循環まで生み出し

まあAKBのようなレベルにまで落ちると
当然、世の中から政治活動そのものが事実上の消滅

当然ですね。

氏は右翼や左翼についても
的確に述べてますが、それは割愛して

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人が政治活動にたずさわる動機には、突き詰めると2つしかありません。
 正義感か、被害者意識かです。
 被害者意識などというと聞こえは悪いかもしれませんが、これらは次のようにも云い換えることができます。つまり、他人事としてか、当事者としてか。
 この世の中に、不当なことがたくさん存在すること自体は、否定できないでしょう。政治活動とは、結局はそうした不当なことをやめさせることですから、政治活動にたずさわる動機としては、自分がその不当な目に遭っているまさに当事者であるという被害者意識か、いや自分が直接そういう目に遭っているわけではないが、そういう目に遭っている人がいるという事実を黙って見過ごすことはできないという正義感か、どちらかということになるわけです。
 これまでの文脈から、ここでは、正義感から発する政治活動ではなく、被害者意識から発する政治活動の方が、本来望ましいのだと云わんとしていることはすぐに分かるでしょう。
 冒頭に、諸個人が抱えている「生きがたさ」の原因のうち、時代や社会の状況に由来すると考えられる部分について、複数の個人が協力して解決を目指すのがすなわち政治運動だと説明したのですから、要するに諸個人はほとんどの場合、誰しも状況のせいで「不当な目」に遭っている当事者であり、それを自覚するのが政治活動の出発点なのだということを云いたいわけです。当事者意識がなく、単に正義感で政治活動にたずさわる人は、要するに自分や社会についての考察がまだまだ不足しているのです。
 しかしこれまた現実には、当事者意識つまり被害者意識からではなく、正義感から発する政治活動がたくさん存在します。むしろ、そっちの方が圧倒的に多いと云った方がいいかもしれません。現実がそうであるからこそ、政治活動というものが、なにか一部の、特殊に「熱い人」たちの趣味みたいなもので、多くの人にとってはカンケーのない話であるかのようなイメージが拡がってしまってもいるのです。
 本当は、よくよく考えてみるならば、その人の資質や性格が熱かろうがどうだろうが、そんなこととは無関係に、ほとんどの人は程度の差はあれ状況によって「不当な目」に遭わされているのです。
 政治活動に、正義感のようなものは一切必要ありません。そんなものは、魅力的な政治活動を形成するに際してはむしろ有害です。
 政治活動にたずさわるに際して最初に必要なものは、被害者意識だけです。もちろん事後的には、先に述べたとおり勉強が必要ですが、それは実は、自らの被害者意識を研ぎ澄まし、「洗練」させるために必要なのです。洗練されていない被害者意識は俗に「被害者ヅラ」と呼ばれる、見苦しいものです。

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そう、政治活動に必要なのは
政治家やエセ表現者が口にするような正義感なんかでなく

純粋なまでの被害者意識

そう徹底的に被害者意識を爆発、洗練させることでして
その有効性を最大限に活かす意味でも各自
自分なりのスタンス(これが難しいのだ)で磨けばよいのです。

そ、ようは自分も当てのない戦い
ただの文句を言ってお茶を濁すつもりでハードコアなニートライフをやってるわけでもなく

嫌というほど不当な目に合わされた自分の利益をば
良い意味で最大限追求しつつ、社会との均衡点をば模索するつもり

その表現活動は今でこそこういう形ですが
目的が達成されるその日まで形態を変えて続くことでしょう。

そして日々周囲の社会状況は政治活動を最大限化するのに
好都合な状況へ向かっています。

真の政治活動を標榜するハードコアなニート的には
実に喜ばしい状況ですが

最後にウィキペディアから引用すると

政治(せいじ,英: Politics)とは、広い意味において人々が生活する上で従うルール、支配、統治を創造し、維持し、修正し、
また破壊することを通じて行われる活動である。

そう、その政治という表現活動には
破壊も含まれるのでして

それは当然、ネガティブなことではなく
歴史的には必然的なコトなのでして

今、この国に必要なのはどれか?
ここまで読んだ聡明なあなたには

もう見えてきたでしょう(笑)
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